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冬には雪が降ってくるよ。
立冬が過ぎた。暦では冬のはじまり。
11月になってから空気が冷えてきて、暖房器具を使い始めた。
長袖を来て、上着を羽織って、マフラーを巻いている。
寒くなるとあったかいものが欲しくなる。
あったかさに触れるとほっとする。

盛田隆二さんの「身も心も」を読む。
6人の作家さんが「死様」というテーマで競作した一冊となっている。
ずっと読みたいと思っていた。秋が来て、冬が来ようとする頃にやっと読むことができた。
75歳の道久礼二郎さんを中心に小説は進んでいく。
老人クラブの絵画同好会に入会する。
会員は60代後半から、最高齢は84歳。
そこである女性と知り合い、お互いに惹かれあっていく。
自分の病気、彼女の過去。小説は様々なエピソードをつづりながら進んでいく。
脳梗塞を患い、半身麻痺からのリハビリのあいだにも、痴呆の症状もあらわれてくる。

彼女のことまで忘れてしまうのではないかと憂慮する礼二郎に、彼女(幸子さん)は言う。
私のこと、やさしいおばあさんと思ってくれたらいいのよ、と。
礼二郎はそのことを忘れないように書き留める。
〈もし幸子さんを忘れたら、やさいいおばあさんが幸子さん〉

世の中にはたくさんの幸子さんがいるのではないかと思った。
たくさんの礼二郎さんと幸子さんと、礼二郎さんの奥さんと、息子とお嫁さんとその子供と、お兄さんや友達や、たくさんの恋人。家族。

生きているあいだ、人は何通りも役割を担っている。妻であり親であり娘であり孫であり、勤め人であり町内会員であり女であり男であり、子供だったり大人だったり。
長く長く生きていると、それがだんだんはがれてくるのではないかなとも思った。
生まれてすぐの名もないあいだとよく似た、人生最後の瞬間というのがあるように思う。
そんなときでも、人は生きてきた記憶として役割があった頃のことを思い出したりするのだろう。

そんな時に、誰かと話ができるというのはとても大切なこと。
これまで生きてきて、答えが出たこともあるけど、答えが出ないままのものもある。幸子さんが過去のことを語っているときに思ったのは、もう答えを出そうとは思っていないのではないかということだった。どうして、とかなぜ、という疑問は持っていても、それに対する明確な答えなんて求めてはいない。答えの出ないものは出ないままでいい。ただ、それを誰かと話すことができたかということのほうが、その人にとって大事なことだったのだと感じた。

誰かと話す。

それは実はとても難しい。
ほんとうに話したいことは、なかなか話せないものだと思う。
どう話していいかわからなかったから、その日あった出来事を適当に集めて話している。
礼二郎さんと幸子さんは、花の名前を話す。
どう話していいかわからないのではなくて、もう話さなくてもいいからなんだろうな。
ほんとうに話したいことって、なんだったんだろう。
会えて嬉しかったよってことだったかもしれない。
生きているあいだに、会えて。
話すことができて。
触れ合うことができて。
ケンカして。
心配し合って。
パンジー、デイジー、アネモネ、クレマチス、

自分がどんなふうに老いていくのかを考えると、見通しの悪い交差点に差し掛かったような気持ちになる。先の道筋はある程度わかっているのに、この目の前の状況判断に迷う。迷ったところで進まなくてはならないので、とろとろと発進する。気持ちがすっと軽くなる日もある。ぶつかりそうになってひやっとし、重い気持ちになる日もある。

どう突破したらいいのかはよくわからないけど、とりあえずはこの交差点を曲がり切ろう。周囲をよく見て、安全に気を付けてハンドルを切ったら、曲がった先の風景が見えてくる。風が吹き抜ける緑のあるところだったらいいな。冬には雪が降ってくるよ。
| 読書週間 | 20:26 | comments(0) | - | pookmark |
未開封の手紙を
 


アマゾンのWeb文芸誌マトグロッソで、嘘みたいな本当の話を募集していたのは去年のことだったか。たまたま見つけて、高橋さんや内田さん選の投稿作品を読んでいると面白く、時間が経つもの忘れた。普段、詩を書いたり、妙にはっきりしないリアルな人間環境を思い返したりしていたころで、それらの作品がすっとこちらにやって来るような感じがした。
1000字という制約があって、どれも本当の話だから、読むほうも友達から聞く話のようにすぐに受け入れることができる。

今年の6月に、第30回までの作品を集めて書籍化された。私の作品も(とても短い)、収録されている。6月の頃に、そのお知らせがメールで届いていたのに気がつかず、削除してしまったせいで、私はこの事を知らずに3カ月あまりを過ごした。

一年前に買っていた、内田樹さんの「他者と死者」。ほんの100ページまでのあいだを何度も往復していたせいで年を越し、今年9月になって再読を開始、やっと読み終えたところだった。以前、ツイッターで「嘘のような本当の話」のことをメッセージで送ってくださった方がいて、その事とあれとこれとがふいに繋がり気がつくことができた。迷路をひとつ抜け出したあとの爽快な気分です。

巻末には柴田元幸さんと内田樹さんの対談があり、これもとてもおもしろい。

収録されている作品について、友達から聞く話のようだと感じたのは、親しみやすくあまり強烈すぎるというものはないからだと思う。
普段の会話の中でも、あまりに強烈なものはなかなか話すことができない。
聞く側にとっては結果そうでもないことでも、話す本人が強烈だと思っていることは口にしにくいし、話しにくいものであると思う。

「誰の身に起こってもおかしくない話」と、対談でも言われている。
個人の特徴や出来事というよりも、誰もが共感できることを物語っている。
日本人のなかに、お話に対する定型が潜んでいるのでは、と対談は進んでいく。
まるごと別の、すっかり他人の、という感覚が未開のままという見方もできる。
ある程度のオチがあり、そこに行きつくことに安心して読める。少しの違いを楽しむ。そのことを内田さんは「あわいを楽しむ」という言葉で言い表す。
今の日本の姿の一面を端的にすくっているのだと思う。

募集は今後も続けるそうです。
これからもっと別のものや未開封の手紙をあけるような話も出てくるかもしれない。
楽しみなプロジェクトです。

マトグロッソのサイトはこちら
http://www.matogrosso.jp

漫画や読みものもあります。




| 読書週間 | 15:36 | comments(0) | - | pookmark |
短歌日和3

みなさん、おはようございます。
只今の時刻は、午前5時24分。
外は暗いです。月が見えないのでお天気は悪いと思われます。
天気予報は雨でした。たぶん、その通りになるでしょう。
嘘をつかない低気圧です。

きのうのつづきです。
かばん新人特集Vol5より、10人目の方から19人目の方まで。
一気にいきます。


【白辺いづみ  夜の惑星】

夢の中あなたは叫ぶ対岸の私に耳はいらない、追い抜く

いらないものがはっきりとわかっている人、いさぎよいなぁと思う。自分にとって必要なものとそうでないものとわからなくてもやもやしてしてるから大抵は追い抜かれたり遅れたりしてしまうのだろうな。追い抜くことが目標だった頃もあった。若いとき。結局追いぬけなかった。だからってほんとうに追い抜かれたのかというとそうでもなさそうだし。答えは案外と河原でぽかぽか日向ぼっこもありかもね。


【陣草子  呼び声】

好きでしょ、蛇口。だって飛びでているとこが三つもあるし、光っているわ

そう言われると、好きかも知れない。いや、好きなんだろう。ずっと好きだった様な気もしてくる。だって飛びでているところが三つもあるし、なんたって光ってるんだもんね。今まで知らなくって嘘みたい。あしたから蛇口をまともに見れなくなってしまう(これまでだって相当まともには見ていなかった気もするけど)。心持が変わって来るんだね。きっと。その発見は世界を変える力を持っています。


【筑井隆  0の歌とそのほかの歌】  19人の歌人の作品のうち唯一横書きの作品

考えて考え抜いた0の意味その意味じつはnothing(ナッシング)です

同じ一行のなかに日本語と数字と英単語があって、不思議な感じがする歌。意味なんてないから眺めていると、日本語と数字と英単語のコラボ。nothingって言うと、日本語で言うのとは感覚が違うのだろうな。0って言う時、音声で聞くと違うよな。いろいろな違いがさく裂していて、おもしろい。


【萩はるか  蝦夷夏歌】

錆び釘にスカート引かれ立ち止まる生き急ぐなと祖母の声して

思いがけない時に、声は聞こえてくるものですね。私の場合は、自分の音声で聞こえます。でも、誰かのものとして聞こえてくる。半分は自分じゃないってことです。錆び釘にスカート引かれるくらい、雑多なところを一目散に駆けている感じがいいな。長年使った台所の椅子に釘が出てきて、よいしょと座るだけで引っ掛かっているわたしには、みずすましの声が聞こえます。
何度も同じとこ引っかけてんじゃねーよ。つーか、直せよ。標準語のみずすまし。住居は東京でしょうか。そして若い。


【藤原響  しろきひと】

ともにいるあなたのたましいあればこそ気狂いもせず水汲みし朝

たましいかぁ。たましいって、何だろう。文章とか書いてても使えない言葉ってあって、この「たましい」という言葉に私は非常に億劫です。たましいがあるという藤原さんがうらやましくもあります。きっと毎朝きれいな水を汲むことができる。汲もうとしている。その姿勢がきれいだなと思います。


【蘆炉郁  螺子たち】

この手からサーチライトがのびてゆく夜の鎖骨としてのびてゆく

夜の鎖骨という言葉につつかれてよい気分。夜は、昼のものの見え方を変えてしまう。建造物が得体のしれないものに見えたり、懐かしく思えたりする。鎖骨はサーチライトのあかり。この手からのびているのです。得体のしれないものも懐かしく思えるものも、この手からのびているのかもしれません。夜の鎖骨に期待をふくらませてしまう一首です。


【法橋ひらく  半夏生】

よく晴れてなんにもない日むりにでも出かけなければもう角砂糖

よく晴れてなんにもない日に、この短歌を読みました。むりにでも出かけなければもう角砂糖なんだなと思い、角砂糖でもよかったんだけど、この日、むりにでも出かけてみました。それで帰って来て夜、またこの短歌を読みました。むりに出かけたので角砂糖ではありませんでした。角砂糖とはすれ違いの人生でした。よく晴れてなんにもない日がこれから先にもあるでしょうか。もしあれば、今度こそ出かけないでいれば角砂糖ですね。もう角砂糖。


【三澤達世  植物歌】

北欧のテキスタイルに込められた南国の花、鳥、夢達

北欧のテキスタイルという言葉に誘われてみた。テキスタイルの語の意味は「布地」「織物」。デザインのパターンとして使われているそうです。調べてみると、北欧のテキスタイルに代表されるマリメッコの花柄は見たことがあるデザインでした。あの花は北欧の花ではなくて南国の花なんですね。まだ見たことがないものへの憧れ。手の中にないことへの称賛。「北欧のテキスタイル」という言葉に誘われたもの、そういうことだったんだなと思う。


【山田航  珈琲牛乳綺譚】

この夏を笑ひ尽くしてしまつたといつた風情の夜のいもうと

清少納言「枕草子」にも夏は夜とつづられている。10世紀の頃より、日本人は夏に夜とくれば風情を感じてしまう民族であるらしい。この歌を選んだ私も標準的な日本人であるらしい。それ以外の言葉というと、笑い尽くした、いもうと。これに風情を感じるのは一体何者であるのか気になるところではあるけれど、笑い尽くしてしまった妹の何をするともなく黙ってぼーっとしている感じが兄としてはたまらなく愛おしかったに違いない。そういう瞬間って、こっちが勝手に思ってるだけなんだよね。俺の愛は大きいぜ。お前に風情を感じられるくらいには。人に(兄弟に)風情を感じることができる人種である(とか)。

山田さんは回文も書いておられます。
その中でも好きなのは、

食らいついていたが大抵墜落

感謝したい気持ちも聞いた写真家

小さい開催地

などなど。回文おもしろい! と思ったのは人生初です。


【ゆすらうめのツキ  ザ! ドイツはどいつだ?】

6月のきゅうりのカーブに居座って携帯の写メに気軽に応じる

きゅうりのカーブはなかなか人の手では作り出せません。大根でも人参でも出せるものではなく、きゅうりに限り習得された秘密の角度。そんな秘密の角度に居座っていれば、誰だって気持ちがゆるやかになり、写メにだって気軽に応じちゃうのだ。すごいなぁきゅうりのカーブは。って思って、こっそり高柳蕗子さんの総合評を読むと、居座っているのは猫ではないかと推察されている。おおー。そうか、猫、なるほどと感激した。是非、きゅうりを横において一枚撮影されたし。その気軽さに救われるということがありそうな気がして。


これで19人、すべての方の感想が終わりました。
それぞれの外部評者のなかに詩人さんのお名前もあって嬉しかったです。
駿河昌樹さん、なかにしけふこさん。
個人的に東直子さん、雪舟えまさんの評も楽しみでした。
千葉聡さんの法橋ひらくさんへの評はより楽しく短歌を味わえます。

感想はいち読者として書きました。
なかには失礼な思いこみもあるでしょうが、大きな胸で受け止めてやってください。
とても楽しかったです。
ありがとうございました!




ところで、今年の目標がひとつできました。
三味線を習うことです。師匠は母。
これまで頑として受け付けなかった母の伝授を今年になってから受ける気持ちになりました。
父の陶芸も受け入れる気持ちがなかった。やってみればよかったと後悔もするけれど、頑ななところが似ているのだから仕方がない。父の本好きは素直に受け取っていますから、三味線も受け入れる時期が来たということだろう。

| 読書週間 | 08:46 | comments(0) | - | pookmark |
短歌日和2

さてさて、今回は「かばん新人特集vol5」について書いていこうと思います。

この冊子が届けられたのは、まだ冬の匂いが残る2月のはじめでした。
真っ青に晴れた空に緑の大地。おしゃれな(細い)電信柱が続いているさわやかな表紙です。電信柱の上には1羽の鳥? 翼の生えたひとりの人がかばんを両手に持っている。かばんの中からは57577とピンクの数字が飛びだしている。黄色に彩られた裏表紙にも人(鳥)がいて、本を読んでいる。かばんは、繭のように白くて楕円の上にふわりと置いてある。あぁ、春なんだなと、本を手にして思いました。150ページに編集された重みがそのまま春の重さみたいでちょっとうきうきする。表紙をめくったところにも裏表紙をめくったところにも、人や動物や小さいのから大きいの、子どもからお年寄りまでみんなかばんを持って立っているイラストが描かれている。
これらの絵を描かれた陣草子さんは新人として短歌も発表されている。本のなかでは「短歌マンガ」もあって、かわいくてほほえましい。枡野浩一さんや東直子さん、笹井宏之さん、木下利玄さんの短歌が4コマで紹介されている。短歌だけでも味わえるのだけど、4コマに出てくるちよちゃんとイヌの冷めた距離感が一層マンガをおもしろくしていると思う。漫才でいうとぼけとぼけ、で、つっこみがいないから、読んでるこちらがついつっこみたくなってしまう。

陣草子さんのウェブページ 陣草子.com

陣さんのマンガだけではなく、ここで紹介されている新人という方のなかには、ほかにもいろんな分野で才を発揮されている。こずえユノさん、三澤達世さんの小説。山田航さんの回文(職人の仕事。それくらいすごい)。おかざきナオさんのエッセイ。蓋炉郁さんの楽譜。おもしろいなぁ、すごいなぁと思って読む。
雑誌「真夜中」や現代詩のユニットTOLTA(トルタ)から出ている「トルタの国語」もそうだけど、いろいろな読みものがあって楽しい。眺めたり読んだり休憩したり真剣になったりできる。

短歌については新人さんひとりにつき30首の短歌を載せてあり、それをかばん内部の方の評と外部評と2通りの評が読める。どこかで目にした人の名前を見つけるのも楽しいし、評だけを読んでもおもしろい。最後に総合評がまとめとして載せられているがそれを読むとまた違った視点が見れて楽しかった。

私の好きな短歌を紹介します。
ひとり一首ずつ、感想を書きます。
感想を書きたくなるくらい、楽しく読ませてもらった本なのです。
評ではないので、名前の右にあるタイトルにはほとんど触れていません。


【阿部暢哉  最近思うこと】

また一年過ぎゆく年に足元を見れば昔の場所におりしか

「また一年過ぎたね」「一年て、早いね」。季節の挨拶のように毎年こんな会話をして、私たちは過ぎてしまった一年を穏やかに見送ろうとする。一年が過ぎていくらか進んできたかといえば、年を重ねるごとにどんどん昔に戻っている気がしてくる。10年前のあの頃と、20年前のあの時とちっともかわっていない自分がいる。こころに浮かんだ感情をそのまま詠んだ素朴な歌だと思う。最後の「おりしか」という言葉の音や響きが、強い意志などではなく自然にそこに降り立っていたという感触があってうれしい。


【あまねそう  切り絵だったのかもしれない】

フロイトとユングの違い説く友の首から生える一本のヒゲ

人間ってすごく真面目になっているときに、全く違うものを見つけておかしくなり吹き出してしまうことがある。フロイトとユングといえば共に心理学者として著名な人で、その人のことを真摯に語る友がいる。専門用語とか時代背景とかが飛び交う中で、目に付いたのが「友の首から生える一本のヒゲ」だった。真面目な話、真剣な話が悪いのではない。悪いのではなく大切なことだ。あまりにも大切なのでそのまま受け入れることが難しく、そういった場合によくいたずらが起こる。唇がめくれたり、くしゃみが出たり、ヒゲを見つけてしまったり。しかも一本だけなんてずるすぎる。せめて何本かあればそんなに気にならなくて済んだのに。この一本というのがミソ。違いとは、もともと一つのものから生まれ出た代物であるかもしれないのだから。ああ、偉大な一本のヒゲよ。そして人はヒゲのことを忘れられなくて、肝心なフロイトとユングのことを忘れがちである。


【石井浩  可逆の母】

雨音を聴くってことは雨音がするってこととちがう おかえり

雨の音を聴くのが好きなのでこの歌を選んだ。私の場合、雨の音はただ聞くともなく聞いているといった感じで、関心を持って聴くというのではないようだ。「きく」という動詞であってもこのような違いがある。ましてや「きく」のと「する」のとは違う。聴くのは私のほうで、するのは雨のほうで「する」。つまり、雨のほうでしている音と私が聴く音とは完璧に違うのである。完璧に違うと言うのはとてもわかりやすいことではあるが、実際に人が生きていて完璧に違うものを受け入れるのは至難の技である。ほんのちょっとの違いでも受け入れられない人が多いこの世間で、「おかえり」という言葉のなんて優しい響きだろう。


【伊波真人  夜とサイダー】

ゆく夏を捕えるように立て掛けた虫取り網がふいに倒れる

ひと夏の仕事を終え、休暇を楽しんでいる虫取り網。夏はもう過ぎていくところ。微妙に揺れる秋の風が立て掛けられた網にも迷い込んでくる。夏の最後の一瞬までを網にそよがせて、決定的な夏を捕えることができたのだろうか。その中に何も見つけることができなかったとしても、いさぎよい夏の終わり方を見たような気がした。


【オカザキなを  あかい頭巾がほどける日まで】

「今だってここにいるけど生と死の違いがやっぱりわからないんだ」

今だってここにいる、私は勿論生きているからここにいるのであるが、だからとって死んだ人がここにいないということにはならず、生と死は相反するもののようで結びつきの深いものである。そんな命題を考えてはみるけれど「やっぱり」わからないのだ。科学的な根拠・医学的な見地・身体的な特徴・精神的な分析。そんなもののなかに答えはやっぱりないのだと思う。ある日、自分が自分の言葉でわかったと思える日まで、この宿題は延長される。わたしたちは長い長い休暇のなかにいる。


【久保芳美  金襴緞子】

カレーパンの袋をバリッと破く時すべての悩みが消滅するのだ

この歌だけでなく久保さんの歌は威勢がいい。歌を読んだあとに豪快な笑いが聞こえるようだ。だけど私は知っている。カレーパンの袋を破ったからってすべての悩みが消滅したりなんてことはない。だけど時にはえいっと何かを決意しなければならないときがある。正義の味方カレーパンマンの登場である。袋を自分の力で開け、バリッという音とともにカレーパンマンはあなたの前にあらわれる。いい匂いをぷーんとさせて。ぼくのカレーはおいしいよ。きみも一口食べてごらんよ。ささやく声が聞こえてくる。おいしいものを食べること。それは悩みが消滅してしまうくらいのしあわせなんだってことをカレーパンマンは、いや久保さんは知っているんだ。


【こずえユノ  夏至まつり】

いぬのへそ見つけてごらん母いぬが噛み切ったあとのすずしいへそを

ひとが時々嫌いになります。嫌いになるとすぐに拍車がかかって誰もかれもが嫌いになれます。勿論自分のことも嫌になります。生まれてこなければよかったとか考えます。でも、それと同じくらいの速度で、ひとに助けてもらっていることを思い出します。優しくしてもらったことも思い出せます。好きなのにうまく関係が取れないとき、人は人を嫌いになったり自分を嫌になったりする。嫌いと言い放ってしまえば楽になる感情を切り離せないでいるからつらくなるのでしょうか。噛み切ったあとのすずしいへそのように、風に吹かれていたいものです。


【三条滋  始まりは西瓜の歌】

夏の朝真っ赤な西瓜にかぶりつき脳細胞の力みなぎる

西瓜が、好きです。かぶりつくのも好きです。だから、脳細胞の力がみなぎるのがよくわかります。夏も西瓜もとても鮮やかな色です。生きる力を感じます。若いこ頃は生きる力なんて感じなくても生きる力がみなぎっている。年取ると生きる力が減っていくのは体力的にもそうですが自分が年を取っているという自覚の成せる技。つまりは、自分が年を取ったと意識することが生きる力を徐々にスローダウンさせていくのではないかと。鮮やかなものに目を惹かれるとか水分が欲しくなるとか、人はそうして意識とかよりも自然な欲求を追求できるようになるのではないかな、とか。今年の夏も暑くなるらしい。真っ赤な西瓜にかぶりつこう。


【下坂武人  やわらかい傷】

たんぽぽの野をふみしだく夕ぐれにおもいだせないことのいろいろ

たんぽぽの野をふみしだいてしまうくらい、言い表せない気持ちを抱えている。それが何なのか思い出せない。ひとつじゃない。いろいろあるはずなのに、どれも思い出すことができずに、たんぽぽをふみしだく。おもいだせないことのいろいろは、どうがんばってもおもいだせないのだと思う。たんぽぽの黄色い花が散って足元が黄色に染まってゆく。綿毛になって飛ぶ前に、足元を照らす黄金の絨毯になったのだ。今夜はきっと寒くなる。綿毛のように白い霜が街中を野原を覆うだろう。おもいだせないいろいろが朝日の中へ飛び立ってゆく。


ここまでで9人の方の感想を終わりました。
あと10人の方の感想は「短歌日和3」で書く予定です。


かばん新人特集Vol5 の詳細はこちらから。
編集人をされた、オカザキなをさんのサイトは port de voix です。






| 読書週間 | 19:30 | comments(0) | - | pookmark |
短歌日和

一昨年の秋、枡野浩一さんの短歌を読み始めた。枡野さんは短歌を詠む前は詩を書いている。その頃の作品をリアルタイムで目にしたことはなかったが、名前は知っていた。「ガムテープで風邪は治る」(新風社)というタイトルとセットで記憶していた。水戸浩一、というペンネームで現代詩手帖に投稿されていたときの作品集。
御本人からこのタイトルについて、作品のなかで理論性がちゃんと説明されている。
風邪をひいた人がうんうんうめいているときに、いやぁガムテープ貼っとけば風邪はは治ちゃうから大丈夫だよ、と豪語する天使のような悪魔のような呪文の言葉だなとはじめは思った。
子どもによく使う「いたいのいたいの飛んでけ〜っていうやつ。
大人版いたいのいたいの飛んでけ〜なのだ。と。
だが、子どもは素直に飛んで行ったと思って治るけど、大人はその他もろもろの感情が発達しているので、そう素直には喜べない。
私がこんなにつらいときに冗談言わないで。とか
そんな言うならあなたがやってみなさいよ。など
大人の反応は洗濯機で脱水されたあとのねじれたジャージのよう。
考えてみたらそもそも人って思いこみで生きてるんだし。
目ざまし時計が鳴る前に起きれたからいい気分、誰もが傘を持ってないときに自分だけ傘を持って出かけて、帰り道、どしゃぶりの雨になったときなど。もしかして予知能力あるかも、なーんて超いい気分になったり。あの人絶対あたしのこと意識してる、そう思う世界の中心は自分である。
そんな思いこみを親鳥が細かくして雛に餌を与えるように、わかりやすい言葉で、枡野さんは詩を書いている。
一方でこのタイトルに込められた強い反骨精神も伺える。日常の普通の行動や誰もがそう思って疑わないことに対して、あのね、ガムテープで風邪治っちゃうんだぜ、と、これまで知らなかった世界の肯定のしかたをこっそり教えてくれている。
あ、長くなりました。
今日は短歌のことを書こうと思っているので、詩集の話はここまで。

枡野さんの短歌もまたわかりやすいのは詩作品と同じ。だけど、短歌作品のほうが自分のなかのいろいろな感情がうごめいてしまう。31文字の短さゆえに浮き彫りにされた言葉の温度みたいなものがすっとこちらに響いてくる。

ローソンに足りないものをだれひとり思いだせない閉店時間

「ま・いっか?」と他者にたずねるふりをして自問自答であきらめていく

           「ハッピーロンリーウォーリーソング」角川文庫


以前、読んだときに付箋を置いていた短歌とはことごとく違う短歌が胸にささってきたので、そのうちの2首を書きだしました。どちらの短歌も意味はわかるし、ほんとうにその通りと思う。特に新しい境地などないじゃないと思うでしょ。でもそこが枡野さんのすごいところで、で、その通りだと言うけどほんとうにそう思ったことあるの?と枡野さんは短歌越しにこちらに声をかける。そこから自分の感情がもわもと生まれてくる。そのから先は自分の問題だ。枡野さんの短歌はきっかけを与えてくれる。きっかけは誰にもわかりやすく響かなければ意味がない。人のこころに入っていくというのは生易しいことではないから。事実として受け止められるように。「普通のことを正確に言おうと心がけているつもり」と、ツイッターでツイートされていたことがあって、なるほどと思う。

今ごろになって悔やんでいることは過去のわたしが見なかった明日(あす)
                        中村梨々

私なんかが正確に詠もうとしてもこういうことになります……。

それから1年、また1年とが瞬く間に過ぎて2011年になった。
今年に入って短歌の本を2冊読んだ。
1冊は東直子さんの「十階」ふらんす堂。
もうひとつは、歌人集団かばんの会から出版された「新人特集vol5」。

東さんの小説は何冊か読んだ。長崎君の指(これは昨年「水銀灯が消えるまで」という題で集英社から出版された)、とりつくしま、らいほうさんの場所、薬屋のタバサ。ぬくもりとつめたさが隣り合わせに座っている不思議な雰囲気のあるお話。「十階」は歌人の東さんを改めて読む機会になった。2007年の365日がちいさな本に収められている。今日、2月20日を見てみよう。

なににせよよかったじゃない本能寺のへんの年号たしかめながら

           2/20
           朝から大根が食べたくてしかたがなかった。
           銀行に行って、郵便局に行って、図書館に寄ったが、 
           ずっと大根のことを考えていた。
           スーパーに寄って出会ったそれは、ことのほか白く、
           太かった。

1ページに1日の記録。短歌だけを読んでも、日記だけを読んでも楽しめる。その両方をながめていると、1日のうちの人間はなんて多くのことを考えたり思ったりしているんだろうと感じる。24時間だけで裁断機には数えきれないほど様々な種類の布の端切れが積もっているに違いない。これもわたし、あれもわたし、たぶんわたし、きっとわたし。である。(これが「愛の水中花」っていうのよ。松坂慶子)。まんまと短歌の水中花になってしまったわたしが次に思ったのは、銀行に行って、郵便局に行って、図書館に寄った、東さんのことである。大根のことを考え続けた東さんのことである。考えて考えて、考えたあげくに、東さんはスーパーで大根に遭遇する。ことのほか白く、太い大根だ。ああ、これが今日考え続けていた大根なのだと東さんは感激されたかどうかはわからないが、その大根に出会った時、やっと一日が終わっていく、終われる安堵感があったのではないかと思う。

短歌を見てみよう。

なににせよよかったじゃない。

誰かに言った言葉か、自分自身に言ったことなのかはわからないけれど、とても肯定的な言葉だ。

本能寺のへんの年号たしかめながら

なぜそのときに、本能寺のへんのことを確かめていたのだろう。「変」が「へん」とひらがなになっているから、本能寺のあたりのことっていう意味にもとれる。本能寺の変は【1582年(天正10)6月2日、明智光秀(あけちみつひで)が京都本能寺に主君織田信長を襲って自殺させた事件。】(yahoo!百科事典)事典によると今から429年前のことである。東さんの日記は2007年に書かれているから今から4年前。書かれていた当時でいえば、425年前のことになる。425年前かぁ。何がどこでどうなっていたかなんて想像もできないけど、その時代に起こった歴史の流れで、今日の日本があるのだろうなと思うことはできる。今も本能寺の変は謎として、研究されている事柄らしい。大河ドラマは今年「江」をやっていて、豊川悦司が織田信長役である。4年前の東さんがまるでそうなることを予言したかのような。近い未来に本能寺のことが話題になるわって脳の無意識なところがささやいていて、自分でもわからないけどふと確かめてみたりして。何がどこでどうなっていたかなんてわからないけど、わからない流れの中で今の自分がある。悩んだりつまずいたりいろいろ毎日あるけど、『なににせよよかったじゃない』こうして今があるんだから。私は東さんの短歌をこんなふうに受け止めた。長い歴史の一端で泣いたり笑ったりしている自分。ちいさな流れにおぼれないように、もっと大きな流れのなかで息してるってことを考えてみようよって。本能寺のへんの年号をたしかめながら東さんが言ってるみたいだ。その日付、私の誕生日だったので、どきっとした。いや、1582年生まれじゃないですよ。

と、つらつらと思うことを書いて、ますますこの本が好きになった。あ、大根のことを忘れていた。あれだけ考えていたのに。織田信長も大根食べていただろうか、とか、書こうと思っていたのに。

時代も人相も姿形も、人は変わってしまうけど、大根は429年の昔から(紀元前エジプト、ピラミッドの従事者が栽培していたとか。日本ではすずしろと呼ばれ「万葉集」「日本書紀」に記されている)。ずーっと大根だったのだ。白く太いあの大根。案外さ、人がいろんなことを思い出したり考えたりしてるんじゃなくて、大根とか銀行とか郵便局とかが人に何かを思い出させるのかもね。


ととと、いつものようにまとまりのない終わり方をしてしまいました。

なににせよよかったじゃない本能寺のへんの年号たしかめながら。

そうそう、よかったよ。この文章終われてほんとよかった。って打ち込みながら、で、なんで本能寺なんだろう。ね、なんで、と謎は残っていくのだ。

白くて太い大根は白くて幅があるこの画面にも似ているな。
食べたらうまいかな。



かばんの短歌の話はまた後日。

| 読書週間 | 09:41 | comments(0) | - | pookmark |
二人という静けさ

盛田隆二さんというお名前を本屋さんで見たことはあったけれど、ご本人がツイッターにいらっしゃるとは知らなかったし、それまで盛田さんの本を読んだことがなかった。
自分の読書歴といえば、図書館で借りた本を読むくらい。読めなくて途中で返したりなんてこともあるし、一か月に5冊も読めれば大収穫。好きな作家さんの本は買います。が、ものすごく悩んで決めるので、たくさんは買わないほうだと思う。

そんな私が盛田さんの「散る、アウト」を読んでしまう。その頃、歌人の枡野浩一さんの短歌や文章も読み始めていたので、枡野さんが書かれた「解説」も気になったのだった。
これまであまり読まないタイプの小説だった。登場人物が現実にいそうなほどリアルに描かれていて、しゃべったり考えたり行動したりする。現実では出会っていない人だけど、先週道ですれ違った人のように接近してくる。

これまで好きで読んでいた本は一定の距離を保っていられた本だったのかもしれない。
本との距離というのは、自分とのあいだでとても効果的に働く。微妙な距離で、しかも自分が心地よさを感じられるもの。こちらにもあちらにも自由に移動できて楽しめるもの。そういうものを感覚で選んでいたと思う。

盛田さんの小説はこちらにがつんとやってくる。はじめはおそるおそるなんだけど、気が付いたら取り付かれている。自分との距離がない。自由がない(余裕がなくなると言ったほうがいいかもしれない。迫って来るもの)。それは生活そのもの。吐いた息や吸った息そのものなんだってこと。
たぶん、こういう事態からなるべく遠ざかろうとしていたのであって、いじいじと暮らしたくないので避けてきたものが、盛田さんの小説でどどーんと運ばれてきた。そんな今。

本との出会いと言うのは神秘なもので、なんであのとき読んでしまったんだろうっていう出会いがある。「二人静」は購入していたものの、3月上旬までは読まないだろうと思っていた。仕事でもばたばたしている時期だったので、そこは外したいと思っていたのだ。それが、ある日思い立って読んでみたら、昨年のちょうど同じ頃に「散る、アウト」「夜の果てまで」を読んでいたことがわかった。私にとって盛田さんは一月の作家。一月には読まずにはいられなくなる。自分の都合がどうかとか、そんなことはおかまいなしで、本のほうが呼ぶんだろうな。こっちこっち、今ここにいるよって。

「散る、アウト」はこっちこっち。
http://7474.jugem.jp/?eid=190


本を読みながら、自分の位置を確かめる。小説は占いではないから、100%その通りに動けば結果がよくなるというのではない。自分とも会話しながら読んでいるんだ。私だったらどう思う、どう感じる、どうする? 本との会話は沈黙のなかで行われる。ときには「孤独」を掘り起こしてしまうこともある。人と会話するのとはまたちょっと違うんだ。人と話しててちょー孤独と思うときだって、相手はちゃんと目の前に立っているんだから。




「二人静」 盛田隆二 光文社

二人と言うのは会話の最小単位であると思う。
一人だと、独り言、つぶやきで終わってしまうことばのゆくえ。一人だと見えなかった世界が、二人になると垣間見える。会話であるからには言葉を交わすということで、賑やかな騒がしい様子を想像してしまうかもしれない。そんな楽しい場面もある。二人のなかを漂う沈黙も生まれる。一人の沈黙は「孤独」。二人の沈黙は「二人静」。

読み終わった後、さまざまな場面での言葉が頭に残った。それなのに、それらすべの言葉にはとても静かな沈黙のベールが掛けられているように感じた。物語の終わりのページに差し掛かった時、このお話はこのまま沈黙のなかで進んでいくのだと思った。その長さ、せつなさ、強さを思って胸が痛んだ。

人にはいろんな人がいる。自分の夢や目標をはっきりと声に出して宣言できる人。潔くてしなやかな人だと思う。声に出せば周囲もそのように動いて来るから、運を引き寄せる人とも言えるかもしれない。一方で、自分の思いをなかなか声に出せない人もいる。その人たちの夢や目標は祈りのようなものかもしれないと思う。誰も知ることはできない祈り。確かな思いでつづられていく祈り。
祈りだけでは世界は変わらないかもしれないけれど、祈りがなければ世界は変わらない。

☆「二人静」、twitter文学賞受賞、おめでとうございます。
 本に出てくるいろいろな人の祈りがたくさんの方に届きますように。

| 読書週間 | 09:45 | comments(0) | - | pookmark |
人生の濃い時間のあとで

盛田隆二さんの「散る。アウト」を読んだ。

不思議なタイトルだ。句読点を挟んで「散る」と「アウト」が並んでいる。
6章に分かれた最後の章に 「CHILL OUT」と書かれていた。

主人公の木崎耕平は早稲田大学を出て半導体の研究をしていた。新しい開発チームに入り、その分野では素人同然の耕平は精神的にまいってしまった。商品先物取引に手を出しすことになる。家も仕事も失った耕平の前に、尾崎という男が現れ、偽装結婚の話を持ちかける。耕平は偽装結婚のためにモンゴルへ渡り、ダワというひとりの女性に出会う。ここまでの話はまるで映画を見ているように読み進んできたが、ダワと出会ったあとはもっとスリルでサスペンスな映像を見ているような展開が待っていた。

これまでの人生ではありえなかったこと。
到底考えられなかったことが、眼の前で次々と起こっていく。

はらはらどきどきするような人生を思っていたのは若いころ私もそうだったけれど、今の時代では平凡な人生を送ることの方が難しいと思ってしまう。

無事に日本に帰りつくことができた耕平だったが、ダワとはもう会えなくなってしまう。
路上生活をしていた時に知り合った砂田を頼りにマニラへ向かう。
ここからが6章の「CHILL OUT」になる。
ゴミとバラックがひしめく場所で、耕平は砂田と再会する。
なんともいえない懐かしさを感じるのは、この国が豊かになりすぎたからだろうか。
たびたび本から顔をあげて、眼に映るいろいろな物を確かめていた。

そして、もう一度物語の最初のページをひらく。

『2006年4月18日の夕刻、低気圧の影響で生じた上昇気流により、中国とモンゴルの国境地帯のゴビ砂漠で、三十年来の激しい砂塵嵐が発生した。』

黄砂のことだ。

黄砂は北京から朝鮮半島に、日本海を渡って耕平のところにまで届く。

それは、耕平だけではなかった。日本で暮らす私やあなたにも届いたはずだ。

その日のことを、耕平はあとで再び目にするところがあるのだけど、時間が経って振り返ったときに、あのときこういうことがあったんだと懐かしさや後悔とも違う、そこにどうしようもない運命として受け取とらざるを得ないような力を感じた。

黄砂がニュースで話題になったのはつい最近のことで、駐車場の車がすっぽり砂色に変ってしまったこともある。小説だけの話ではない。自分の人生のことなのだと思った。

ある程度、年を重ねると(耕平の年齢は37だった)思うことは、若い頃の濃い時間のこと。何かに一生懸命で突き進むことができた、あの濃い時間。一生懸命であればあるほどあとから思うとひやっとするようなこともしてしまう。若いということがキーワードではなく、そういう瞬間が人にはあるのだと思った。誰かと深くこころを通わせることができる、怖いものなどない。そんな時間。マニラについたとき、耕平の気持ちの中にはダワがいて、それは彼の濃い時間に違いなかった。濃い時間を過ごしたあとで、やってくるのが平穏とは限らないが、それこそが生きるということではないのかとも考えた。

1章がはじまる右のページに、私は本を読み終わってからたどり着いた。
【CHILL OUT】 凍てつく。熱狂の後の静寂


「散る。アウト」盛田隆二  光文社文庫



ここまでが感想です。
ここからは近況です。

まとまった詩の作品を書けないままだったので、短い文章からと思い、ツイッターに登録しました。短歌のようなつぶやきのような短いお話のような詩のような、相変わらず漂流していますが、よろしかったら覗いて見て下さい。いくらか数も増えてきたので、ここでお知らせすることにしました。

http://twitter.com/riri74N

ここのブログにはまとまった長めの文章を書いていくと思います。
更新はたぶん、不定期です。
ツイッターの方は短いので、ちょこちょこ書いています。
読んで下さるとうれしいです。

| 読書週間 | 14:41 | comments(2) | - | pookmark |
ありがとうと感謝したい





インフルエンザが騒がれているなか、対抗するように更新をしています。

第43回現代詩手帖賞を受賞された廿楽順治さん。
文学フリマでも販売されたという「うだがわ草紙」を送ってもらいました。
宇田川新聞さんという方の版画に合わせて、短い詩を載せてあります。
その詩を読んでいると日々悩んでいることがばかばかしくなってくるという不思議な感覚に陥ります。



毎日あふれるような日常に暮らしている、そのなかで息ができないこと、息しにくいことがある。今日も明日も同じことを繰り返すために、同じことを繰り返す理由を忘れなければならないときです。息詰まります。行き詰ります。そんなときに、廿楽さんの詩が、宇田川さんの絵が、わたしたちはぶかっこうで右からやって来たって左からやってきたって同じじゃん、と語ってくれます。ほっとします。ほっとさせといて、縦に縞模様の薄気味悪さや、真っ暗な懐かしさへと誘ってくれます。自分の過去をながめたり未来をのぞき見したり、してしまいます。

好きなのは

「対岸」
黒い街並みの版画からは原爆のあった広島も頭に浮かぶ。原爆でなくても戦争でなくても、誰か大切な人との別れを書いている。みつお、というのはお父様の名前のようだけど、みつおは生き残り、別れた人は死んでしまった。どうしてむこう岸は火につつまれたのか。そのことをかんがえる、みつお、は、

はしりながら
(はしる)
というありさまで死ぬこともあるのだと

自分は生きて走っている、そしてはしりながら、はしるというありさまで死ぬこともあるのだと書かれている。

長い空白のあと

見張り塔がむこうにもこっちにも立っていく
それはかなしくも
うれしくもない

という言葉で詩は終わる。
見張り塔というのだから、あちら側からはこっちを、こちら側からはあっちを見張る塔なのだ。だけど、見はったところでどうなるんだろう。わたしはあんぜんなのだろうか。あっちが死ねばわたしは生きれるんだろうか。たぶん、そういった二者択一をみつおはしないだろうと思う。かんがえるしかない。かんがえていないかもしれないが、はしるしかない。見張り塔なんて生きるのに役に立たないし、役に立たないとわかっていても立ててしまう自分もいる。見張り塔から見たものにゆすぶられ右往左往して、対岸を渡ってしまおうと思いついたりする。

それは、
自分か、見はり塔か
かなしくもうれしくもないのは、やっぱり見張り塔だろうな。
わたしは人だから、かなしかったりうれしかったりしてしまう。



「ゆうびん」
ポストが好き。この頃はみんな四角いから、この丸いポストがあったころ、あのころ投かんした手紙はきっと赤いポストのなかにあるんだろうなーなんて考える。
この詩はまた不思議な詩です。

まちがった名を
まちがった思いのままとどけてくれてありがとう

なんて、言う。
まず、まちがった名がいやだし(普通は)、まちがったままとどくのはもっといやでしょう。
つまりまちがい×2でいやの二乗。になるところだけれど。
きのうスーパで立ち話をしIさんという店員さんは、私より少し年上か、子供たちはみんな成人しているという。そんな話をレジにならび、なおかつ、次の人がいないときにだけちょっと話す。きのうはかなり暑い日で、そのために体温も上昇してしまっているだろうと思うくらいの暑さで、わたしは「今日も暑かったですね」と言い、Iさんは「おかしくなるよね」と答えた。卵とニンジンと焼きそばを手元で通過させてるIさんの顔はずっとモニターに注がれていた。わたしはモニターには映らない。「いつもおかしい」とつぶやく。Iさんが笑う。モニターを確認して、私も、と笑う。
いつもおかしいから、この暑さでおかしくなったら、ふつに戻れます。
Iさんとわたしは正常です。正常に機能しています。
というような出来事を思い出し、まちがったものをまちがったままとどけるのは正常かどうかはわからないけど、ありがとうと感謝していいんだと思う。
それはもう過ぎてしまったことだから。
だけど、それだけじゃ終われないよね。
ひとつもつたわってこない。

ぶんれつした夕方のおばさん

は、わたし。と思うと

最後の一行にすくわれる。

生きててよかった。

ありがとう、廿楽さん。宇田川さん。



「藤」
色がきれいで見とれる。「とまらない」の住所一覧もいちいち見てしまうほど素敵だった。そういえば制服も、鳥も電球も、ときりがないので「藤」。版画を見ながら言葉を読む。言葉を見ながら、版画を読む楽しみ。


「せっきょうごうとう」
裸の女の人のいさぎよさ、うつくしさ。と、せっきょごうとう、のひらがな。何度見ても飽きない。とじてないからなんだろうな。とじてないことは叱られることが多いよね。


「土俵町内」
なげとばされるほうが神様です。ではじまる「土俵町内」
この一文で、すっかりこのページも好きになりました。
神様には影がなくってふとってはだかで・・・。
とっても身近でくすりと笑える、頼もしい神様と思いました。


そして、この冊子、ネット上で見てしまえるそうです。
ほんと、たくさんの人に見てほしいです。
でも、手元にあるとまた違います。
紙質とか色合いとか字の並び具合とか、手にしないとわからないことって案外ある。
とか言いながらこちらです↓
http://tsuzura.com/shoten

| 読書週間 | 09:51 | comments(0) | - | pookmark |
自然さに立ち現れる







三角みづ紀さんといえば、れっきとした詩人だ。れっきとした、という言い方がいいのかどうか古いか新しいかは知らないが、いいとかどうとか古い新しいをひっさげて、れっきとしている。
2004年に出版された「オウバアキル」で中原中也賞を受賞してからも「錯覚しなければ」「カナシヤル」など第二第三詩集も出版されている。


三角さんの書く詩が好きな私は、amazonでこの本を見つけしばらく迷う。詩人が小説を書くということはこれまでもこれからもあり、特に目立ったり控えたりしなくてもいいこととは思う。だけど、好きな詩を書く人が書く小説というのは、読む前にひどくどきどきする。呼吸困難になる。
小池昌代さんのときもそうだった。最初はあわてて、まともに文章を読めなかった。
詩の言葉と強さと柔軟さを引きずってしまう。
それは自分の責任。
詩作品に対しての思いから抜け出せない自分の、責任、だったし、抜け出さなくてもよいとわかる。
なによりも、この本の表紙に惹かれた。
骨がピアノをひいている。
頭は人のものではなくて、鳥類か爬虫類か、はたまた魚か、のように見えるのに、手だけはしっかり指がありピアノを弾いている。毛羽立った首筋の骨細胞。タイトル「骨、家へ帰る」の文字。中にある文章は計り知れなかったが、この表紙があれば、大事に読んでいけると思った。

物語は智子、陽平、詩子、滝也のそれぞれの思いからはじまる。帰る家を探す智子、駆け抜ける俊敏な馬を見落とす陽平、午後4時に立ち尽くす詩子、電気椅子で死刑執行を待つ滝也。それは一体どういうことなんだろうと読んでいくと、それは現実にあり、また人のこころにもある日常ではないかと気づく。人の見えないこころの動きが、空に浮かぶ雲のように形をなし言葉に表せれている。空を見上げて雲が流れて行くのが頭の中で言葉に変わる。とても自然で、別々だった4人の話が一気にまじわり、つながっていく。いつしかひとつの命題につながる。帰るところがある、というしあわせ。

物語の途中で現れる、水族館や蛙の描写は独特で、詩の一行を読んでしまったのかと思うほど。
物語としても進行し、詩として森に迷い込むこともできる。贅沢な一冊だと思う。


「美代子の満開の下」も収録されている。
美代子と母親の話と思って読んでいると、美代子は母親になり、父親になり、いなくなり、どこにいるかと思うと、一本の木になって美代子は満開になる。からくりの絵本を見ているかのように、迷いながら戻り、戻ってはまた迷う。

迷うというのは楽しいことだったと、こどもの頃の自分を思い出していた。
迷うのがすっかり怖くなった。すっかり大人に化けてしまった。

この本を読みながら、楽しかった。
馬の走ってくる風向き、アイロンをつなぐプラグ、雨の日の蛙の色、それらが身近に感じられた。
言葉がおもしろいと思った。

幼い幼いと繰り返す詩子は三角さんに一番近いのかな。
だけど、大切な一文で物語は締まっていく。


うまれたことのこうかいか
しんでいくことのこうかいか


そういう一文をこの本の中でさらりと置ける。
三角さんはただ幼いだけでない、と感じる。


三角さんの詩をひとつ。



私を底辺として    
   
   三角みづ紀

私を底辺として。
幾人ものおんなが通過していく
たまに立ち止まることもある
輪郭が歪んでいく、
私は腐敗していく。
きれいな空だ
見たこともない青空だ
涙は蒸発し、
雲に成り、
我々を溶かす酸性雨と成る
はじまりから終わりまで
首尾一貫している
私は腐敗していく。
どろどろになる
悪臭漂い
君の堆肥となる
君は私を底辺として。
育っていく
そっと太陽に手を伸ばす
腕、崩れる


| 読書週間 | 08:35 | comments(0) | - | pookmark |
「千」の抜け殻

今年になって一か月が過ぎた2月のある休日の朝か夜か、夕方だったか
それともそれ以外の時間にだったか、思いついたように図書館へ行った。
理由は特になかった。
理由を必要としているのでもなかった。
はじめは本棚と本棚のあいだを歩きながら、読みたくなるような本を探した。
すでに知っている作家さんだったり、興味を引くタイトルだったり。
分厚い全集を眺めたあとに、詩集を抱えてしばらくぼーとしたりした。
そんなこんなで先週はジュディバドニッツ・川上弘美・栗田有起・多和田葉子を借りた。
ひとつを読むと次に読みたくなる本が出てくることがある。
気になっている本を本屋さんで物色しているうちに、文藝の特集で穂村弘さんと谷川俊太郎さんの対談を立ち読み。東直子さんの名前を知った。
家に帰ってパソコンで調べていると、東さんはNHK短歌の選者さんだった。
http://www.nhk.or.jp/tankahaiku/index.html

投稿のテーマがおもしろいと思って、随分長い間画面を眺めていた。
「千」という文字が「干す」に見えてきた。
今日はとてもいい天気だ。
街中が春の陽ざしに干されている。
通り過ぎる人がほわわんと宙に浮かんで見える。
干されて軽い、抜け殻になったみたいだ。
暖かくなるというのは、抜け殻が増えることかもしれないと思うと、すごくいい思いつきのような気がした。

春の陽に千の抜け殻ねむりつき

   ・・・・・・。


うーん、どうする。

| 読書週間 | 17:51 | comments(4) | - | pookmark |

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